ログイン日当たりの悪い部屋にこもり日々行うのは、分厚い教典をただひたすらに黙読することだけである。
邪気よけの香木が炊きしめられた空間の中、時折ページを繰る音だけが響く。 司祭館はそれ自体が祈りの空間であるから、日がな一日静寂に包まれる。 シエルにとってもそれは自然なことであったし、むしろ心地よいと言っても良かった。 そんなある日のこと、何やらざわめきが近づいてくるのを感じ取り、シエルは眉をひそめた。 異物が侵入してきたような不快感と嫌な予感に、彼は読んでいた教典を閉じる。 そして、じっと扉を凝視し、外の様子をうかがった。 と、ざわめきは次第にはっきりとしてくる。 「……いけません! どうぞ、お戻りください!」 「うるさい! そこをどかないか!」 予想通りの聞き覚えのある声に、シエルは深々とため息をつく。 次の瞬間、扉は乱暴に開け放たれた。 戸口に立っていたのは言うまでもなく、ルウツ唯一の皇位継承者であるミレダである。 わずかに頬を上気させているその姿を、無言のまま冷めた瞳で見つめていたシエル。 その様子を一瞥するなり、ミレダは声を荒らげた。 「一体どういうつもりだ! 何度手合わせの呼び出しを無視すれば気が済むんだ?」 予想通りの詰問に、シエルは常のごとく感情の無い声で応じる。 「どういうつもりもない。俺は神官府の命令に従って、リンピアスからの処分が決まるまで謹慎しているだけだ」 当然と言えば当然の、至極真っ当な返答である。 だが、ミレダは納得がいかないとでも言うような表情を浮かべる。 それを意に介すことなくシエルは教典を開くと、黙読を再開した。 ミレダの声が、高くなる。 「そうじゃない! お前、与えられた申し開きの機会を断ったそうじゃないか。どうして……」 「……俺が進んで敵陣に斬り込んで、無数の命を奪ったことに嘘偽りはない。申し開きするまでもないじゃないか」 言いながらも藍色の瞳は、ひたすらに教典の文字を追ってい程無くして駆けつけたペドロは、いつになく色を失っていた。 半泣きになりながらも汚した床を片付けるシモーネと、空っぽの寝台を見やりながら、注意深く室内に視線を巡らせた後、ペドロはおもむろに執事長に向き直った。 「お屋敷の中は、もう探しましたか?」 「はい、くまなく探しましたが、お姿は見当たらず……。ご存知のとおり、庭園は皇宮や司祭館に通じておりますので……」 その返答に、ペドロは目を伏せ首を左右に降る。 「自分は司祭館の方から参りましたが、途中ではすれ違いませんでした」 言いながらペドロは寝台に歩み寄ると、その上に手を置く。 「だいぶ冷えていますね。短剣も見当たらない。かなり前に出て行ったのでしょう」 「けれど、一体どちらへ? まだアルトール様はご自身を取り戻していないようにお見受けしましたが……」 涙声で問うシモーネの言葉を受けて、ペドロは目を閉じじっと何かを反すうしている陽だった。 「あの時……いや、でもまさか……」 「ペドロ殿?」 首をかしげる執事長に、ペドロは珍しく大きな声を上げた。 「皆さんは引き続き、敷地内の探索を。自分はロンダート卿とジョセ卿につなぎをつけます!」 自分の考えが当たらなければ良いのですが。 そう言い残してペドロはその場を走ってあとにした。 ※ 皇宮の中庭に設えられた調印式の場にまず現れたのは、貴公子然としたフリッツ公。 そして、その手を取って並び立つ姫君の美しさに、その場を埋め尽くす近衛や朱の隊の口からは嘆息が漏れる。 無論それは身分相応の装いをしたミレダであることは言うまでもない。 華やかな装いとは裏腹に、その顔は不機嫌そうだった。 「書類に署名押印をするまでの辛抱です。ですからもう少し我慢してください」 苦笑いを噛み殺しながら小声で言うフリッツ公に、僅かに唇を尖らせる。 「わかってる。けれど、どうしてこんなに重くて動きにくい格好をしなければならないんだ?」 加えて慣れぬかかとのある靴では足元が覚束ないミレダは、フリッツ公の手を取らなければ歩くこともままならない。 そんな見た目だけは紳士淑女の両者の前に現れたのは、エドナの全権大使である。 ロンドベルトを始めとする駐在武官達に囲まれているその様は、まだ完全にルウツを信用してはいないように見える。
ミレダはかなり不機嫌だった。 不在となっている皇帝の代理人としてフリッツ公と共にエドナとの和平調印式に出るのはいい。 だが、公の場に出るとなると、身分にふさわしい服装をするべきではないか、と周囲が言い出したのである。 ミレダは当初、常日頃のような騎士の出で立ちで出席しようとしていたのだが、和平を結ぶ席に武人が赴くのはいかがなものかと言われ、ついに折れざるを得なかった。 結果、常ならば自然に背へと流されている長い髪を結い上げ、着慣れぬ貴婦人の装束に身を包むことになったのである。 もちろんその格好では、肌身はなさず帯びていた剣を身につけるわけにはいかない。 仏頂面で現れたミレダに、フリッツ公は一瞬目を見開き、ややあってにっこりと笑った。「大変お似合いです。一体どちらの貴婦人が現れたのかと思いました」「茶化さないでくれ。今日は剣を持っていないからな。何かあっても従兄殿を守ることはできないぞ」 いつもよりもやや乱暴な口調のミレダに、フリッツ公は僅かに肩をすくめてみせる。 それから冗談めかしてこう言った。「私達は戦場に赴くわけではないですよ。交渉事に剣など不要ではありませんか」「従兄殿は甘い。それでよく今まで生き延びられたな」「まあ、私は政に関心のない愚昧公でしたから」 そう片目をつぶってみせるフリッツ公。 だがその内心には不安しかなかった。 ユノー達からの報告によれば、この事件を引き起こしたのは白の隊を率いるゲッセン伯だという。 その隊は悪いことに、他の五伯爵家の部隊とともに近衛と朱の隊では手薄な皇宮内の警備についている。 彼の背後にはメアリがいるはずだ。だとすれば、確実に何かをたくらんでいるだろう。 しかし、それはあくまでもフリッツ公の憶測に過ぎないので、ミレダには伝えていない。 加えてフリッツ公自身も、今日は貴公子然とした格好をしているため、剣を帯びてはいない。「まあいいさ。何か起きたら、私が身を挺して従兄殿を守る」 いつになく真摯な口調のミレダに、フリッツ公は思わず足を止める。「待ってください。どうしてそうなるんですか?」 すると、ミレダは振り返りざまにこう答えた。「決まってるじゃないか。従兄殿は次期皇帝なんだから、臣籍にくだる私が守るのが道理というものだ」 そして屈託もなく笑ってみせるミレダに、フリッツ公は頭を
棺を乗せた馬車か皇宮の敷地内にあるフリッツ公の本宅にたどり着くと、ユノーとシグマ、そして家人達がそれを迎える。 「つけてくるような怪しい動きはありませんでしたか?」 ユノーからの問いに、御者台から飛び降りたペドロは首を横に振る。「いいえ。さすがに葬列を襲うような恐れ知らずはいなかったようです」 それから手分けして棺を馬車からおろすと、いつもとは異なり侍女の装いのシモーネに導かれ、地下の墓所ではなく、屋敷内のもっとも奥まったところにある普段は使われていない部屋へと運び込んだ。 そこでは神官の長衣姿のジョセが、その到着を待っていた。 室内に棺を置くと同時に扉は閉じられ、窓にかけられている垂れ絹《カーテン》も厳重に閉められる。 それを確認すると、ユノーは注意深く棺の蓋を開く。 その中には、身じろぎすらしないシエルが収まっていた。「敵に怪しまれないためとはいえ……。申し訳ありませんでした」 謝りながらユノーはシエルを抱きかかえ、整えられた寝台の上にその身体を横たえた。 ペドロから件の短剣を受け取ると、ユノーはシエルの手にそれを握らせる。 けれど、シエルは相変わらず空虚な視線を天井に向けたままだ。 やはりもう手遅れなのだろうか。 そんな思いが、一瞬ユノーの脳裏をよぎる。 激しく頭を左右に振りその考えを振り落とすと、ユノーはジョセをかえりみた。 厳しい表情を浮かべうなずいたジョセは、寝台に歩み寄りその傍らに立つ。 すいと手を伸ばしシエルの額に掌をかざすと、重々しい声音で癒やしの言葉を唱え始める。「……汝に平安あれ」 ついにその祈りが終わった刹那、シエルの身体がぴくりと動いたような気がした。 が、それ以上の変化が起きることは残念ながら無かった。「そんな……。前はこれでもとに戻ったんだろ? どうして……」 思わず声を上げ、ジョセに掴みかかろうとする勢いのシグマを、ペドロはあわてて押しとどめる。 その脇でユノーは両の手の拳を握りしめることしかできなかった。 わずかに苦悩の表情を浮かべ、ジョセは一同に向かい深々と頭を下げた。「弟子のために尽力してくださりありがとうございます。すべては私の至らなさが……」 そんなジョセに、ユノーはあわてて声をかける。「お手をお上げください。僕……小官がもっと早くに助け出していれば……。申し訳……」
「……確かにこれは父上の字に間違いない。けれど、それにしても……」 フリッツ公イディオットが持参した件の日記帳を一読したミレダは、ことの真実を知り深々とため息をついた。 無理もない、妻の侍女を見初め関係を持ち、それが妻に知られそうになったため弟に押し付けたのだから。 けれど、予想通りの反応だったのだろう、イディオットは苦笑いを浮かべている。 「誰もが聖人君子というわけではありませんよ。こと、先帝陛下は婚礼当日までお相手の顔を見ることがなかったそうではないですか」 「確かに、そうだったらしいけれど……」 未だに納得のいかないような表情で、ミレダは目の前のイディオットをじっと見つめている。 「いかがなさいました?」 思わず首をかしげるイディオットに、ミレダはためらいがちに問う 「この間、従兄殿は心に決めた女性以外は后にするつもりはないと言っていたけれど、それは……」 「ああ、その言葉には嘘偽りはありませんよ」 即答し、にっこりと笑うイディオットに、ミレダは安堵の息をつく。 そして日記帳を閉じるとイディオットに向けて差し出した。 「議会を黙らせるにはこれで充分だろう。でも、そうすると従兄殿は……」 皇帝に即位しなければならなくなる。 そう不安げな視線を向けられて、イディオットは日記帳を受け取りながら答えた。 「証拠が出た以上、従わざるを得ないでしょう。それに、皇家の重さをお二人に背負わせてしまったという引け目もありますし」 本来ならば妾腹の生まれではあるが、男子である自分が矢面に立つべきだったのに。 そういうイディオットに、ミレダは首を左右に振る。 「いや。万一従兄殿が兄として生まれていたら、今頃は……」 先帝の皇后は美しく聡明で家柄も良いのだが、唯一の欠点がその嫉妬心の強さだった。 正妃である自分よりも先に妾腹の子が生まれるとあってはどうなるか、想像に固くない。 だからこそ先帝は自らの子を身ごもった侍女を弟に娶らせ、二人の命を守ろうとしたわけだ。 やれやれとでも言うように息をついてから、ミレダは足を組み直す。 そして上目遣いにイディオットを見やると、おもむろにこう切り出した。 「……ところで従兄殿、私に隠れて一体何をしているんだ?」 突然今までとはうって変わった鋭い口調でミレダから問
両者が滑り込むように室内に入ると、シグマはすぐさま扉を閉める。 それを確認してからジョセはフードを外し、見つめてくる室内の面々に向かい深々と一礼した。 その隣で、ペドロは申し訳なさそうにしている。「すみません。完全に自分の失態です」 一体どういうことなのだろう。 ペドロはの言葉の真意がわからず顔を見合わせる一同の疑問に答えたのはジョセだった。「話はすべてペドロから聞きました。弟子のために尽力してくださり、感謝の仕様もありません」 再び頭を垂れようとするジョセに、ユノーはあわてて言った。「とんでもありません。僕……小官たちは勝手に動いただけですので……」 ついでシグマもこう付け加える。「そうだよ。オレ達、単に大将を助けたかっただけで……」 二人の言葉に、だがなぜかジョセの顔には苦渋の表情が浮かんでいる。「いいえ。何もできず、弟子を奪われるなど、これ以上ない失態です」「……『殺すなかれ』は神官の本分。致し方ないことではありませんか?」 遠慮がちに言うシモーネに、だがジョセは目を伏せ首を左右に振り、苦しげにこんな言葉を口にした。「我々は一体、何のために剣を持つのか。それを改めて考えさせられました。大切な存在を守れずして、何が騎士かと」 除名の処分を受けてでも、大司祭やシエルを守るために剣を振るうべきだった。 そう言い拳を握るジョセの姿に、一同は思わず押し黙る。 延々と続きそうな重苦しい沈黙を破ったのは、先程から無言で立ち尽くしていたペドロだった。「……実は、昔シエルが正気をどのようにして取り戻したのかを聞くことができたのですが、それを取りに行こうとして、ジョセ卿にみつかってしまったんです」 正気を取り戻させた鍵となったものが存在したと言うわけだ。 ジョセはうなずき、懐からあるものを取り出した。 卓の上に置かれたそれは他でもない、常にシエルと共にあった古びた短剣だった。「彼の失われた家族の、唯一と言ってもいい形見です。殿下がこれを見せたとき、シエルは突如として正気を取り戻したらしいです」 ペドロの言葉に、一同は鍵となるかもしれない短剣をじっと見つめた。「今の状況では、これに賭けるしかありません。ペドロから聞く限りでは、おそらくシエルには祈りの言葉は届かないでしょう」『あの時』もそうでした、とジョセは悲しげに告げる。
「とりあえず、意識は戻られました。けれど……」 そして、幾度目かのシグマの店での会議である。 シモーネは静かにそう切り出したのだが、表情は暗い。 飲み物を手際よく配りながら、シグマが問い返す。「けれど、どうしたんだ? 目は覚めたんだろ?」 しかし、その言葉にシモーネは目を伏せ、首を左右に振る。 首をかしげるシグマに向かい、シモーネは絞り出すように続けた。「寝台に横たわったまま、虚ろな眼差しを天井に向けられるのみで……。何も話すこともなく、もちろん食べ物を口にすることもなく……」 やはりゲッセン伯のところで受けた苛烈な責苦で、その心は完全に壊れてしまったのかもしれない。 予想通りの展開に、室内には重苦しい空気が流れる。 さらに追い打ちをかけるように、シモーネはこう続けた。「悪いことに、屋敷の周囲に見慣れぬ人間がうろつくようになりました。……敵は、手当たり次第に心当たりの場所を探っているのでしょう」 その言葉に、ユノーはうなずいて賛同を示した。 というのも、祖母の家の周囲にも明らかに地元の人間ではない男を見かけたからだ。 遅かれ早かれ、この店での会議も危険なものとなるかもしれない。 いや、その前にシエルの安全をなんとしても確保する必要がある。 そんな思考に沈んでいたユノーを、シグマの一言が現実に引き戻した。「そう言えば、斥候隊長はどうしたんだ?」 そう、今日はまだペドロが来ていない。 同じく姿が見えないロンドベルトからは、何やら条約締結の件で慌ただしくなったため当分出られないとの連絡を受けている。 あの几帳面なペドロが連絡もなく欠席するはずがない。 何か面倒なことに巻き込まれたのか、あるいは……。 嫌な想像が一瞬ユノーの脳裏をよぎったが、無理矢理にそれを振り落とす。 何よりユノーよりもはるかに手練で注意深いペドロが、そう簡単に危機に陥るはずもない。「もうしばらく待ちますか? それとも……」 言いさして、ユノーはシモーネに視線を送る。 それを受けてシモーネは一つうなずくと、何やら紙に書き付け始めた。 どこに敵の目が光っているかわからない今、重要な事柄を言葉に出して外部にもれるのを防ぐためだろう。 シモーネの手元を注視するユノーとシグマ。 女性らしい繊細な文字は、こんな文章を書き出していた。──公爵閣下は、アルト







